学短信 -Nr.5- (2003.12.15)

レーゲンスブルクの日本料理屋(撮影:糸井さん)

12月某日
 同じ講義を受けていて知り合った日本人の友人のアパートにて鍋会。集まったの は、中国、ベトナム、シンガポールと、お箸を使う国の人ばかり。ベトナム風春巻き から始まって、麻婆豆腐、すき焼きなど、どの味も皆なつかしい。そして、アジアの 人びとの中にいて何時になくリラックスしている自分に驚いた。
 ドイツで会った人びとには皆、びっくりするくらい親切にしてもらっているけれど も、それがどこか生真面目な優しさであるのにくらべて、アジアの人はその気候にも 似てウェットな感じがする。突き詰めない、というところ。もちろん、すべてを「ア ジア」として大雑把に括ることはできないけれども、似ている部分はやはりある。ど ちらが良い、悪いという問題ではなく(ドイツの人びとの生真面目さはとても好き だ)、そうした湿り気のある接し方に「慣れて」いるのだ。だからこそ、リラックス する。思いがけず、自分も確かにアジアの人間なのだと自覚させられる一夜となっ た。
 東洋人の外見は、ここではとても目立つ。「外国人」という看板を常に掲げて歩い ているようなものだ。それを理由に嫌な目にあうことはほとんどないけれども、皆無 ではないし、自意識過剰とはいえ、やはり常に緊張しているのだと思う。そして、あ る集団の中で少数派として暮らすということは、無条件で弱い立場になるということ であり、どうしても自分を卑下したり、逆に相手を避けたりしがちになる。ふだん意 識していなくとも、外国人として暮らすということは、それだけでやはりストレスな のだろう。
 そうした中で、背筋を伸ばしていること。毅然としていること。必要なのは、たぶ ん自分に対する誇りだ。誇りは、漠然としたイメージからは生まれない。自分自身を 客観的に眺め、冷静に見据えなければ分からない。例えば、ドイツの社会の中で、自 分たちの習慣と違うことに出会って苦労することは多いけれども、そこで何も「ドイ ツ人」になろうとすることはないのだ。かといって、自分のやり方を押し通せばよい という訳でもない。きちんと主張し、相手と理解しあうためにも、自分を知り、誇り を持つこと。それは、排他的な愛国心とは違う。
 やはり遊びに来ていたドイツ人と対等に渡り合う、ベトナム人男性の姿を眺めなが ら考えた次第。

12月某日
 明け方、嵐。午後からは晴れる。
 昨夏、パッサウの青少年スポーツ交流にて知り合ったマリアとクリスマス・マルク トへ。この時期、学生たちは毎夜のようにここに集まってはグリュ−・ワインを飲む のだという。マリアいわく、クリスマス・マルクトはロマンチックだけれども、酔っ 払った学生たちがうろうろしている様子は「ロマンチック」の正反対の光景。そうい う彼女も、先日何杯か飲んだあとに自転車で家に帰ろうとしたところ、通いなれた道 であるにもかかわらず、気づかぬうちに迷っていたらしい。
 いつもは一杯だけなのだが、今日はマリアといっしょに二杯目のおかわり。教訓。 グリュ−・ワインはどんなに美味しくとも一杯で止めておくべし(または時間をおく べし)。酔いはいきなりやって来る。



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