学短信 -Nr.10- (2004.2.10)

ドナウ川の流れ(撮影:糸井さん)

2月某日
 旧市街の東側にある「東方正教会研究所」を訪ねる。ここは、カトリック教会と東 方正教会の橋渡しをする意味で設立された研究所で、東方正教についての研究を行っ たり、正教会からの留学生を受け入れたりしている。
 9月末、語学研修先のフランクフルトからレーゲンスブルクに到着したとき、駅で 出迎えてくれたロータリーの人びとの中に、この研究所の責任者であるウィルヴォル 氏がいた。もっとも、氏は「出迎えにきた」のではなく、滅多に駅には出てこないの が、その日に限って客人を見送りにやって来て、偶然居合わせたのだという。そんな わけで、自分にとってのレーゲンスブルクの第一印象は、黒い僧服を着た背の高い ウィルヴォル氏なのだ。
 誘われるままに他の人びとと共に研究所へ行き、ケーキとコーヒーをご馳走になっ た。よく晴れた日だった。窓からは、日の光を反射するドナウ川が見えた。部屋の中 の世界地図。鳩時計。そこかしこに飾られた十字架。あの空気は忘れられない。  この研究所では、東方正教を勉強している学生に、ドイツでドイツ語やカトリック について勉強するための奨学金を与えているのだが、建物の一部はそうした学生のた めの寮になっている。クリスマスには、「ひとりで過ごすのはよくない」といって、 帰省せずにレーゲンスブルクに残った学生たちとの昼食会にウィルヴォル氏が招待し てくれた。ウクライナ、ブルガリア、ルーマニア、グルジアなどの学生たちといっ しょに、ローマ法王のクリスマスのメッセージをテレビで見たあと、昼食。焼いた豚 肉とクヌーデル、ザウアークラウト、それにデザートとしてラズベリーソースのか かったクリーム。ルーマニアのシュナップス。
 何より印象に残っているのは「歌」だ。食事の前に、最中に、何かを祝うために、 祈りの際に、とにかくすぐに歌が出る。特によい声で歌うブルガリアからの学生がい て、彼が高い声で歌いはじめると、ウクライナから来た学生が低い声で唱和し始め る。やがて、歌は大きな輪となって広がる。言葉の意味はわからなくとも、歌はこち らの気持ちに届く。
 この研究所の活動に興味をひかれて、もう何度か訪ねている。今日は、待ち合わせ 時間の少し前に、研究所前の通りで、出先から帰ってきたウィルヴォル氏とばった り。ほんとうに暖かい日。もう春のようですね、と言うと、庭にクロッカスが咲いた のだと指差してくれた。「でも、もう一度雪が降って、零下15度にもなる日がやっ てくる」。
 ウィルヴォル氏は穏やか、かつ、皆を笑わせるべく常に機会をうかがっているよう な人なのだが、とても鋭い。ローマで18年間勉強し、8カ国語を使い、ロシア方面 の正教会に詳しいという学識だけでなく、目の前に立つと、いいかげんな部分をすべ て見透かされてしまいそうな力がある。事実、口先だけのことを言った途端に、その 「いいかげんさ」を指摘するような質問が次々と出される。知りたいこと、聞きたい ことはたくさんあるが、自分の勉強不足を悟らされるばかりで、なかなか思うように 話ができない。壁にイコンのかかった部屋の中、この日も結局、研究所の施設につい て少し話を聞いただけで終わる。
 クリスマスに聞いた歌が印象に残っているという話をしたところ、そのときは嬉し そうににっこり笑って、あれは素晴らしいでしょう、と言う。ウィルヴォル氏の部屋 には小さなピアノがあり、その上には楽譜が置かれていた。氏自身も、とてもよい声 で歌う。この日、ルーマニアとウクライナの教会音楽のCDを2枚と、正教会につい ての本を一冊貸してもらい、帰宅。次は3月に訪ねる約束をする。
 研究所の紹介文には、こんなふうに書かれている。「この研究書のいくつかの部屋 はドナウに面しています。ドナウ自体が、ヨーロッパの国々に架けられた橋なので す。私たちの奨学生がドナウの流れにふと目を向けるとき、彼らは、この波が幾日か 後には、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、あるいはウクライナといった、自分た ちの故郷の国々に届いている様子に想いを馳せることができるでしょう。」
 元は同じところから流れ出しながら、違う道を辿ったふたつの教会をつなごうとす る場所がレーゲンスブルクという街に置かれたのは興味深い。カトリックと正教会。 西と東。いくつもの国境。異なるものの間に橋を渡すということ。重ねてきた歴史や 地勢上の役割によって、街の持つ特性は違う。そうした中、「橋」であろうとする レーゲンスブルク。知りたいことが、次から次へと出てきて大変だ。とりあえずは、 ウィルヴォル氏から借りた本を読み始めるところから。


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